志賀直輝
←壁の向こうは銃痕まみれのラファ
私はどうにかパレスチナへ帰れないかと頭をひねっていた。そういえば、エジプトとガザ地区を結ぶ国境があることを思い出した。もちろん国境が閉じているのは知っていた。とにかく、いくだけ行ってみることにした。
ガザ地区とエジプト国境のちかくの町AL-RISHへいった。ここ一体の宿にはガザへ向かうパレスチナ人がたくさん泊まっている。ここの人たちの 話では700人近くのパレスチナ人が数ヶ月間、家に帰るために国境が開くのを待っていると語っていた。私は、仲良くなったガザ出身のパレスチナ人からもう じき国境が開くという情報をもらった。さらに「お前もガザに入れるぞ」なんていわれたから、もうこれは行ってみるしかないと思った。
この彼は、パレスチナのガザ地区に奥さんと子どもが三人いる。イスラエルの経済制裁によってガザの失業率は最悪。だから彼は単身でアメリカで出稼 ぎに出ている。そして年に一回ガザへ帰る。今、彼はエジプト側で国境が開くのを一ヶ月以上待っている。彼は、ガザから家族を連れてアメリカに移り住むと いっていた。これはイスラエルによるガザ地区への空爆や経済制裁によって生活が無茶苦茶にされ、子どもにとっても安全ではないからだと語っていた。
わたしは彼と一緒にガザ地区との国境の町ラファへ向かった。ラファの町の真ん中にはエジプト側とガザ地区を隔てる国境がある。元々ひとつの町だったがイスラエルの占領の結果、現在はエジプト側とパレスチナ自治区と分かれている。
私たちは灼熱の道路の上をひたすら歩いた。そして国境についた。私は下手糞なアラビア語で「ガザへいきたいから国境を開けてくれ」と国境警察に頼 んだ。しかし、あっけなく無理だと言われた。もしもガザへ行きたいなら、パレスチナパスポートをもって来いと言われた。パスポートを取得するにはパレスチ ナ人の嫁さんをもらわないといけないとのことだった。残念だがガザ行きを諦めた。
そして私たちは、ラファの町へ戻った。ラファの町に引かれた壁を見に行った。今年の1月下旬から2月にかけてイスラエルの経済制裁のために極度の 食料難に陥ったガザ地区の人々は、この壁を破壊し食料を買い求めにエジプト側に溢れ出た。この時わたしの連れの彼も破壊された壁を通り越してガザからアメ リカへ戻ったといっていた。
彼は私にやさしい口調でいった「ガザの人々の生活はとても苦しい、だからタフに生きないといけないだよ」と。
ガザ地区は水道、ガソリン、食料、医療、経済がイスラエルによって止められている。またガザは壁に囲まれそこへイスラエル軍は度々空爆を繰り返し ている。ガザへの経済制裁、空爆を強める理由としてイスラエルはハマスのイスラエルへの強硬政策、ハマスからのイスラエルへのロケット攻撃をあげている。 またイスラエルをはじめ欧米や日本などはハマスをイスラム過激派、テロリストとして扱っている。しかし、とうのガザ出身の彼の話ではまったく違う話が聞け る。
「2007年6月よりハマスがガザ地区を治めている。ハマスが治める以前ガザは、武器が溢れて力のある家族や政治家が仕事から何から何まで仕切っ ていた。その力のある人間と良い関係がない限り仕事にはつけなかった。海外からの支援も幹部の人間がポケットに入れていた。しかしハマスがきてからはガザ にある武器がほとんど回収された。だから治安も急激によくなった。ハマスにはお金がないが、あればそのお金を学校や病院などを建てている。人々にも分け る。だから、多くのガザの人々はハマスを支援するよ」と。
私はハマスが良いとか悪いとか口を挟む立場ではない。とうのパレスチナ人が選んだのならそれでいいと思う。大体、外の人間が介入しようとするから問題が新たに生まれるわけであって。もっと中の実態に目を向けるべきだと思う。
この彼には、兄弟が3人いる。彼は数年前にアメリカ人になった。兄はロシア人になった。弟はトルコ人になった。みんなガザから家を追われ今は別々に暮らしている。元々はみな同じパレスチナ人だった。
この兄弟を追い出したイスラエルはパレスチナ人の土地を奪いそこに入植地をつくる。その入植地にはアメリカ人やロシア人のユダヤ教徒が移り住みつく。アメリカ人やロシア人だった人間がイスラエル人になる。そして追い出されたパレスチナ人がアメリカ人やロシア人になる。
また、アメリカはイスラエルに莫大な軍事・経済支援をしている。そしてイスラエルが追い出したパレスチナ人をもアメリカはひとつの労働力として吸収してしまう。こういった状況に抵抗し、自分の生まれた地を守ろうとすると過激派・テロリストと呼ばれ激しい経済制裁を受ける。
こんな状態がいつまでも続くと思ってはいけないと思う。人間をあんまり舐めてはいけないと思う。下からの力を思い知る日がきっとくることを忘れてはいけないと思う。わたしたちもその一つだということを。
PS
私たちはラファの町から帰ろうとした時、警察に呼び止められた。そして警察署に連れてかれた。長いこと職質を受けた。許可書がないと立ち入りできないといわれた。なんだか最近ずいぶんと警察に愛され仕方がない。
明日、私はエジプトをたつ。守るべきパレスチナのオリーブの樹はどこにでもある。私たちの足元にはどこでも生えている。
最後にイルコモンズのふたより。
▼「だんだん世界がとじてゆく」(マフムード・ダルウィーシュ)
僕らが世界の果てにたどりついたとき
僕らはどこへ行けばよいのだろう?
最後の空がついに尽き果てたとき
鳥たちはどこを飛べばよいのだろう?
草木が最後の息を吐ききったとき
どこで眠りにつけばよいのだろう?
僕らはそのわずかな血で
僕らの名前を記すだろう
僕らはその翼をもぎとり
僕らの肉がうたう歌をききながら
その命を終えるだろう
最後に残されたこの小道の上で
そう ここで この土地で
僕らが流した血のうえに
ここからもあそこからも
オリーブの樹がなるだろう
(訳=イルコモンズ)
故マフムード・ダルウィーシュに最大のリスペクトそして、わがパレスチナに勝手に連帯を捧げ続ける。
▲この壁の向こうはガザ
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▲HEY NOKIA!
PS2
ラファからの帰り道、わたしたちの乗った乗り合いタクシーが無謀な運転のせいでトラックに突っ込みそうになった。しかし乗客はみんな「アッラーハ ンドリラー(アッラーのお蔭様)」いって笑いあっていた。誰一人無謀な運転をした運転手を攻めずにいた。こんなアラブ世界が私はたまらなく好きだ。
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