ESFへゆこう
志賀直輝
ESF(ヨーロッパ・ソーシャル・フォーラム)は、年に一度ヨーロッパ内で行われる様々なアクティビストたちの巨大な祭典・交流の場だ。今年は、スウェーデンのマルム(Malmö)で9月17日から21日まで行われた。マルム市内各地には世界各地の社会・政治問題のセミナー会場、WORK・SHOP、アート・ギャラリー、映画上映会場、巨大テント、メディアセンター、ボランティア会場、パーティ会場、コンサート会場などが置かれた。また連日、直接行動、デモンストーレション、ロード・ブロック、RTS(リクレイム・ザ・ストリート)も行われた。
私は、1ヶ月前から北スウェーデンのウメオ(Umeå)という森林に囲まれた小さな町に来ている。極フェミニスト、戦闘的ビーガン(90年代にはスウェーデンで一番巨大な肉会社「SCAN」の輸送トラックを何度も襲撃している)、グリーン・アナキスト(直接行動または戦闘的な動物保護、環境保護アナキスト)、アナルコ・クイア(新フェミニスト・あらゆるノーマルに異議を唱える人々)のコミュニティーの中で生活している。ちなみにこのコミュニティーはコレクティブ・ハウスと呼ばれている。スウェーデンではスクオッティング・空き家占拠が非常に難しい。だからみんなアパートや家をシェアして生活している。この家が様々な活動の拠点にもなっている。
そんな中よくESFの話がもちあがっていた。みんな詳しくはよくわかっていないが、とにかく各地からアクティビストやアナキストが集まるからゆこうという話だった。私にとってはパレスチナで一緒に活動していた仲間たちもゆくというし「暴動」が起きるぞなんて聞いていたからこれはゆくしかないと思っていた。
ウメオからマルムまで約1300Km。私は極フェミニストのEMSと一緒に2日間かけてヒッチハイクでマルムに向かった。パレスチナでは1.2台でヒッチハイクできたがここではそうもいかない。スウェーデンの9月は日本の冬に近い。寒い中ひたすらヒッチハイクした。だいたい1時間以内でつかまえることができた。トラックや車に乗るといつも連れのEMSはパレスチナ問題、ビーガン、クイアの話をドライバーに始めた。ドライバーもそれに答えていた。イスラエル支援者には長い議論を打ち、肉食のドライバーには肉の生産方法を見極めて買うようにと勧めたり、ビーガンやベジタリアンになることの素晴らしさを勧めていた。(ビーガンを強いられている)私はときおり、煙たい目で彼女を見守った。
マルモにつくと、町中が祭りのような雰囲気だった。中央広場からは四つ打ちが響いていた。コンサート会場からはラテンな曲が聞こえた。セミナー会場やアートギャラリーが町中にいくつもあった。いろんなアクティビストやアナキストが町を徘徊し、巨漢な警察官が無数に巡回していた。アナキスト・カフェ「アイスクリーム・ファクトリー」にはヨーロッパ各地のアナキストやPUNKSがたまっていた。
初日は、難民・移民支援デモに参加した。スウェーデンは難民や移民の受け入れが他国に比べると寛容だ。しかし、2006年に政府がヨーロッパ型「社会主義」から資本主義な右派に変わってから、難民や移民の受け入れが減っている。もちろん福祉政策もカットされはじめ民営化が進んでいるという。これはヨーロッパ全体にもいえる。
難民・移民支援する活動家の中には近年ヨーロッパ各地で増え続ける排外主義なナチスに対抗するアンチファのアナキストたちもいた。もちろん私はこのアンチファ、ブラック・ブロック(全身黒で覆面をしたラディカル集団)に参加した。各役所前に着くと難民、移民の人々やそれを支援する人々が抗議のスピーチが行われた。
デモの後は、ESFのボランティアに参加した。ボランティアの参加した理由は、飯がただで食えることと、セミナーが無料で受けれるということだった。町の各地に設置されたセミナー会場のスタッフをやった。私は、セミナーの通訳を受信するためのラジオを売る役になった。しかし、ラジオを売るのが嫌だった。恐らく中国で安い賃金で作られただろう格安ラジオを「ANOTHER WORLD IS POSSIBELE・もうひとつの世界は可能だ」という反グローバリゼーションのスローガンを掲げて売るのはおかしいと思ったからだ。だから、こっそりと無料で上げたり貸し出した。もちろん、このラジオを売る行為に異議をいう人もたくさんいた。
2日目は、またラジオ売りをした。主催者にラジオをしっかり売れといわれたので、慎重にラジオをあげたり、貸し出した。ラジオ売りの後は会場のゴミ拾いをした。使いふるしのコンドームを数個ひろった。気分が高揚した。
その後、車社会反対・自然保護デモに参加した。このデモでは、最終的に交差点を封鎖して道路に座りこんだ。サウンドシステムも現れRTSになった。ドネーションのビーガン・バーガー屋も現れた。格安箱ワインを取り出して仲間たちと楽しく飲んだ(スウェーデンはストレッドエッジ、アルコール反対者も多い。アル中の私とストレッドエッジのアナキストはなかなかうまくゆかない。最近はストレッドエッジにアル中と呼ぶな、エンジョイ・ライフと呼べといっている)。
夜は、メイン道路のRTSへいった。道路は完全に封鎖された。ライブをやるトラックと、DJが乗ったトラックが現れた。そしてみんな踊った。しかし、覆面をしたアナキストたちが殴り合いの喧嘩を始めだした。なにかと思っていろいろ聞いてみると、ブラッグ・ブロックが銀行の窓ガラスを割り始めたらしい。喧嘩は窓ガラスを割るなという人間と割るべきだという人間の間で起こったようだった。
窓ガラスを割ってるという話を聞いて勃起した私はすぐにその中へ入った。路上からブロックを剥ぎ取り、それを何べんも銀行の窓ガラスに投げていた。警察は慎重に見守っていた。私は窓ガラスの破壊よりも警察の対応に驚いた。日本でやったらそっこう捕まるのにここの警察は甘いなと思った。
路上パーティは続いた。屋根に上ってグラフィティを始める奴もいた。「私は下着が欲しい」と書いてた。路上から歓声があがった。私もあがった。フルチンになって警察にVサインを送る奴も現れた。ついに警察への投石がはじまった。緊張状態になるかと思った。しかし、それを止めるアナキストが警察との間に座り込んだ。だから、投石は止まった。私も警察の前へ座り込んだ。どこの世界もいつの時代も同じで非暴力で行動する人間とラディカルで戦闘的に行動しようというのと分かれるようだ。
警察の前に座っている私に新聞記者がインタビューしてきた。「銀行の窓ガラスを割るのをどう思うか?」と聞かれた。だから私は「非暴力直接行動を信じている。私はやらないけど(やりたいけど、逮捕されると国外退去になるから)、銀行の窓ガラスを割るのは支援する。銀行は行き過ぎたの資本主義の象徴だから」と答えた。英語力がないせいで単純にしか答えられなかった。世界各地に広がる極度な貧困や激しい差別や抑圧の原因のひとつが過度の資本主義や金持ち優先の政策によることは間違えない。これは世界各地を旅し、この目でみて肌で感じてきたことだ。しかし、本当に言いたいことは、わたしもこの銀行の窓ガラスを割ってる人間の多くもキャッシュカードをもってATMから金を下ろしていること。窓ガラスを割ることは資本主義への怒りの意思表示のひとつだと思う。けど、それ以上にこの矛盾をまずは知ること、現状のシステムに依存しない方法を探さなきゃいけないと言いたかった。いつ警察が突っ込んでくるわからない状況だったので、記者はすぐにいなくなった。そしてすぐに武装した警察が動き出した。何度か腹を警棒で突付かれた。みんな石を投げながら逃げた。おかげでパーティは終わってしまった。なにか空しさだけ残った。
3日目は、ISM(国際連帯運動・パレスチナ支援団体)の行動に参加した。歩行者道路にお手製のCHECK・POINT(パレスチナ各地に置かれた検問所)を作って、偽イスラエル兵が偽パレスチナ人を激しく検査するパフォーマンスを行った。ISMの積極的な活動家やパレスチナ人がイスラエル兵役を演じた。それ以外の活動家はパレスチナ人役を演じた。最初はみんな笑顔が出ていたが、次第に慣れて真剣に演じはじめた。中には本気で兵隊になりきって怒鳴り、どついてくる奴もいた。こいつは本当に興奮(脳内勃起)していると思った。人間にはそんな性質があると思う。わたしはひたすら地面に押さえつけられ足で踏まれた。後になって「ほんとはあんなことしたくなかった」と謝ってきた。しかしそんなことよりも自分の中にある暴力の快楽性を知ること、その存在を認めることの方が何倍も大事なことかと思った。これは祭り、激しいデモ、暴動、戦争などの快楽も同じだと思う。この快楽を認めることは、快楽を意図的にコントロールしようとする権力や集団に利用されにくくなるんじゃないかと思う。
その後、ESF全体の巨大デモに参加した。「ANOTHER WORLD IS POSSIBELE・もうひとつの世界は可能だ」というスローガンを掲げたグローバリゼーションに反対する活動家、労働組合、人権運動家、動物保護・自然保護グループ、パレスチナ支援、世界各地の貧困や抑圧と闘うNGO、性差別・区別に異議を唱えるフェミニスト・クイアのグループ、社会主義者、マルキスト、平和活動家、多種多様な人々が参加していた。私はもちろん真っ黒なブラッグ・ブロックに参加した。ブラック・ブロックの歩いた後にはグラフィティが残された。警察や護送車がたくさんいるところには空き瓶や路上から剥ぎ取られたブロックが投げられた。グローバリゼーションを代表する店の窓ガラスも数箇所割られた。サウンドシステムからは攻撃的な4つ打ちが鳴り響いた。ハードコアなコールが街中に唸った。私たちは覆面しながら、安ワインに酔った。デモは7キロ続いた。みんな疲れ果てデモは終わった。
夜は酒を飲んで、パーティが各地で広げられた。町全体を巻き込んだESFは多々疑問点もあったが、祭りとして最高だった。私がすごく幼いころ、母親に連れられていった共産党の赤旗祭りがダブった。赤旗祭りを妨害しようとしていた右翼の街宣車。幼いながらも抵抗心と興奮を覚えた。そして今も私はあの興奮を求めて、ここにいる。母さん、残念ながら私は赤くはありませんが、今はこんなに真っ黒です。真っ黒なアナキストたちの多くは、自分のことだけじゃなく、世界の貧困や抑圧を受ける人々、動物や自然を大事にしようと真剣に考え悩み行動する優しい人々です。ときには激しい行動もとりますが、それはなんとか変えたいという思いからです。なんて、酔っ払って一人考えた。
帰りは、ボランティアの退職金としていただいたラジオを聞きながら、ヒッチハイクで来た道をもどった。さぁ、つぎはどこへゆこうかな。
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