彼は、佐藤レオさんが撮ったドキュメンタリー「ビリン・闘いの村」の中でもインタビューを受けています。
以下サイトは日本語でビリン村の最新情報が読めるのでお勧めです!(志賀直輝)
気まぐれビリン村情報
http://bilininfojp.blogspot.com
親愛なる友人と支援者の皆さん
アブダラー・アブ・ラーマ
私が手錠をはめられ、目隠しをされて家から連れてこられて、もう2ヶ月になります。ビリン村の土地に建つアパルトヘイト・ウォールがついに移動され、新しい建設ルートに沿った建設が始まるというニュースが今日、オファー軍事収容所にとどきました。これにより、私たちの村から盗み取られた土地のうちの半分が戻ってくることになります。壁に対する抗議を行ったことで投獄され、オファーにいる私たちにとっては、この勝利はここにいることの苦しみを和らげてくれるものといえます。
5年間、毎週に渡りイスラエルのアパルトヘイト・ウォールと入植地によって私たちの土地が奪われることに抵抗をつづけてきた私たちは、この勝利と、そして私たちの闘いの5周年を祝って、兄弟姉妹たちと共にいることを心から願うばかりです。
オファーは、占領地にある、監獄と軍事法廷としての機能をもつ軍事基地です。監獄は、有刺鉄線と電気フェンスで囲まれたたくさんのテントからなっています。各ユニットには4つのテントがあり、各テントには囚人が22人ずついます。今のような冬には、テントにあいているすき間から雨風が吹き込んできますが、毛布や服などの生活必需品の数は不十分です。
ここオファーでは、食べものが切実な問題です。足りていません。テントの中で自分たちでやっている監獄売店から原料を買うことで、私たちは生き延びています。私たちには小さなホットプレートがひとつあるだけです。これはまた、暖を取るための唯一の方法でもあります。家族が食べものを買うためのお金を入れてくれる者たちはそうしますが、多くの者にはそれは適いません。このことでよかったのは、私が料理を覚えたこと!今夜は、勝利の知らせを祝うために、ファラフェルとデザートを作りました。早く家に帰って、妻と子どもたちのために料理したいです。
私はスリッパを履いたままで逮捕されましたが、今日に至っても、私の家族は私に靴を持ってくるための許可を得られないでいます。何度も要求して、私はようやく腕時計を返してもらいました。私にとって腕時計は、しっかり意識を保っているために必要不可欠なものです。時間がどういう早さで経っていくのかよくわからないのには耐えられません。腕時計を受け取って、私は初めて腕時計を手にした子どものように喜び勇みました。まともな靴をまた履くことができたらどういう感じなのか、私には想像するのもやっとです。
私たちを投獄しているので、軍は、私たちの家族を安全への脅威とみなしています。妻や子ども、親族が訪問するのはとても難しいです。私と同じビリンの出身の政治囚で私の友人、アディーブ・アブ・ラハマさんは、妻と娘の訪問を受けることができません。体調のよくない80代のお婆さんである彼の母親でさえ、安全への脅威とみなされています!もう、母親が死ぬ前に会っておくことはできないのではないかと彼は恐れています。
私は教師です。逮捕される前は、ビルゼイトにある私立学校で教えていました。養鶏場も持っていましたが、私が逮捕されてから、家族は養鶏場を格安で売らなければなりませんでした。釈放されてから学校に復職できるかどうかは、わかりません。アディーブの家族9人は、他のたくさんの家庭と同様、家計の唯一の担い手なしになってしまいました。私たちを必要としている愛する家族のために何もできないというのが、ここにいることの最も辛い部分です。
私は、家族や友人たちからのサポートがあるからやっていられます。私の家族にコンタクトをとってくれたパレスチナ人指導者たち、EUの外交官たち、そして私の公判を傍聴することによって支援の念をあらわしてくれたイスラエル人活動家たちに感謝しています。活動家と私たちが共につくりあげてきた関係は、同僚や友人という定義をはるかに超えています。この闘いにおける、兄弟姉妹です。あなたたちは常に、インスピレーションと連帯をもたらしてくれる源です。あなたたちは、デモや裁判のとき、そしてもっとも嬉しい時や悲しい時に、私たちについていてくれました。監獄にいて、私はどんなに自分に本当の友人がいるのか、わかりました。皆さんに本当に感謝しています。
投獄されている中で、私たちの闘いはビリンの正義のためだけではないし、それどころかパレスチナのための正義などというよりも遥かに大きいものなのだということが、とてもはっきりとしました。私たちは、抑圧に対する国際的な闘争を行っています。壁と入植地に反対する運動に加わった世界中の皆さんのことを思えば、それが本当だとわかります。占領に怒りを感じたごく普通の人々が、私たちの闘いを彼らのものにし、私たちに連帯してくれました。パレスチナが自由になったあかつきには、私たちも他の場所での正義のための闘いに、かならず加わります。
ビリンの闘いの5周年記念にいあわせられないのは、まるで自分の子どもの誕生日にいあわせられないかのようです。私は最近よく、昨年の非暴力デモの最中に命を失った友人のバッセムのことを思います。どんなに彼に会いたいことか、と。彼を失った痛み、そして故郷の家族や友人と一緒にいたいという強い願いにも反し、私は思うのです。もしこれが自由のために私たちが払わなければならない代償であるのなら、その価値はある、そして私たちは喜んでさらに支払うだろうと。
アブダラー・アブ・ラハマ
オファー軍事収容所より
オファー軍事収容所より
▼2010年2月12日ビリンの壁反対デモ
▼ビリン村とは(気まぐれビリン村情報より)
西岸地区のビリン村は、ラマッラーの12km西、グリーン・ラインの4km東に位置しています。ビリン村はおよそ4085ドゥナム(988エーカー)*1 の農村で、人口は約1780人です。
イスラエルはビリンの農地のうち、およそ55%を「国有地」とし、入植地モディーン・イリットの建設のために収奪しました。モディーン・イリットには42,000人以上と、どこの入植地よりも多い数の入植者がおり、15万人まで人口を増加させることが計画されています。
1948年より前には、ビリン村は4085ドゥナムの広さを有していました。1982年および1991年に、およそ1980ドゥナムが、そして2005年に、分離壁の建設のためにさらに260ドゥナムが収奪されました。
2004 年、国際司法裁判所は分離壁は国際法、とくに国際人道法違反だという判決を下しました。判決ではさらに、イスラエルの入植地は同じ一連の法の下で違法であるとし、分離壁のルートはグリーンラインに隣り合う入植地群と密接につながっていて、西岸地区の12%をさらにイスラエルに併合するものだと指摘しました。
その勧告があったにも関わらず、2005年初めにイスラエルはビリン村の土地に分離壁の建設を始めモディーン・イリットの用地を作るため、また壁の「イスラエル側」でモディーン・イリットが将来拡大していく用地を確保するためにビリン村は二分されました。
2005 年3月、ビリン村の住民たちは、じぶんたちの土地の収奪に反対するほぼ連日の直接行動、デモを始めました。その創造性と根気強さにより国際社会の注目を集めたビリン村は、人びとによる抵抗のシンボルとなりました。5年後のいまも、ビリン村では毎週金曜の抗議行動が続けられています。
2006年以来ビリン村の人々は、人びとによる抵抗運動に関する会議を例年開催し、アクティヴィスト、知識人、リーダーたちが占領に反対する非暴力抵抗の手法について議論をするための場を提供しています。
イスラエル軍はこれまでに参加者に対し、音響・衝撃爆弾、水砲、ゴムで覆われた鉛の銃弾、催涙ガス、22口径(直径5.6mm)の実弾を使ってきました。
2009年4月17日、イスラエル軍は高速の催涙ガス弾でバーセム・アブ・ラーマ氏の胸を撃ち、ラーマ氏はラマッラーの病院で後に亡くなりました。
分離壁に反対するデモのことで逮捕された住民75人のうち27人は、2009年6月23日の夜襲開始よりもあとに逮捕されています。
ビリンは、その草の根の運動に加えて2005年秋には法廷闘争も始めました。訴訟を始めて2年後の2007年9月、イスラエル高等司法裁判所はモディーン・イリットの一部は違法に建設されているため、中途にある住宅の建設は完成されてはならず、分離壁の建設ルートを何百kmか西に移動させてビリンの土地の25%を村に戻すべきという判決を下しました。いまのところ、この高裁の判決内容は実行に移されておらず、入植地建設が続いています。
*1 1ドゥナムは1000㎡(ウィキペディア)。
0 Responses to '監獄からの手紙 アブダラー・アブ・ラーマ'