The Wildfire Spreads(私たちは野火となって広がってゆく)
Filastineのブログ記事の翻訳:
http://filastine.com/log/2011/05/the-wildfire-spreads.html
今現在起こっているスペインでの蜂起は、確かに地中海の対岸での反乱に直截インスピレーションを受けている。しかし、この蜂起は、独裁国家からではなく、リベラルなヨーロッパ型民主主義国家で始まっているのだ。エジプトやチュニジアとは異なり、抹殺や拷問は逸脱行為であり、報道は売れるものであれば何でも自由に書くことができる。現在の選挙で選ばれたスペイン政府は、左派政党によって率いられ(注:5月19日時点では)、悲しいかな、ほかの政府と比べてみれば、世界の中では進歩的なものだと考えられている。
この事が意味するのは、私たちが、なにか全く新しい要求、ユートピア的な蜂起、より直截的な民主主義への探求の出現を目撃しているということだ。この新しい運動の強さ、および弱さは、それが一つの象徴、旗、または単一の名前を有していないということである。それは、広場を埋め尽くした数千の人々の集合的想像力のなかだけに存在している、ひとつの可能な未来なのだ。
イギリスの公共サービス削減への抗議やフランスのストとは異なり、これらの広場の占拠(少なくともバルセロナでの)は、予算カット、賃金、労働契約または学費に関する明白なスローガンで埋め尽くされてはいない。人々の対話はより深くなり、ほとんど哲学的と言ってよいほどである。「なぜ私たちはこんなクソみたいな生活を強いられるのか?」「いったい私たちは誰によってこんな目にあわされているのか?」「どうしたら私たちはこの状態を克服できるのか?」、そして最も根底的には、「私たちはどのような社会に生きたいのか?」という問いがある。
現在の民主主義政府のモデルは、もはや過去のものであり、進むべき未来はどこにもないと議論され続けている。70年代まで続いた独裁体制を鮮やかに脱したスペインが、現代資本主義の合意への信仰をやめるというのは驚くべきことであろう。たとえ、月曜日にはスペインの人々が広場から立ち去ったとしても、今回の批判が消え去る事はない。それは、べつの形で、べつの場所で再び現われることだろう。歴史は終わらない、私たちはまだ歴史を作りだすことができるのだ。
(翻訳:Kenichiro Egami)
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フィラスティン、いいこというね。