大好きな信原さん
志賀直輝
2014年6月11日に信原孝子さんが亡くなった。
信原さんは、1971年から17年間、イスラエル軍の砲撃にさらされるベイルートの病院や、最前線の南レバノンの診療所、ダマスカスのパレスチナ難民キャンプで医師として医療活動を続けてきた。帰国後は、旅券の再発給を拒否する外務省との長い裁判闘争を闘ってきた。また、20年間、地域に根差した医療活動を行ってきた。
私が長旅から大阪に移り住んだ五年前、彼女は私のとこへ来て、金がない私に、たくさんのカンパをしてくれた。初対面とは思えない程、馴れ馴れしく、ざっくばらんで優しい人だった。それから、何かあるたびに信原さんは私に昼夜問わず長電話をしてきた。信原さんは、ビリン村のデモ隊が、イスラエルが作った隔離鉄格子を殴りつける様に、言いたいことを、一方的にしゃべり続けていた。
信原さんが、何か思い立てば、すぐに仲間を呼び出し、イスラエルに対する抗議ビラを街頭で配ったり、集会やイベントに参加しろ、と誘っていた。信原さんのビラは、乱雑で、説明不足で、感情的で、文章構成も関係ない。ただただ熱意と勢いが強く、生命力と魂に満ちているビラだった。
信原さんは73歳だったと思う。信原さんを英雄視する人もいるみたいだけど、勿論、戦場の中で、パレスチナの人々に寄り添ってきた医療活動は本当に素晴らしいし、尊敬されることだと思う。だけど、私が彼女に思うのは、英雄なんかじゃなくて、彼女は、不安定で、感情的で、情熱的で、言いたいことばっかり言って、相手の話しはあんま聞かないし、だけど、年齢や性別や習慣や権威や国家や、なんやかんやなんて、全く関係ない、本当に好き勝手で、自由な魂の人だった。どうでもいいことかもしれないが、信原さんは、いつも自分のことをアナキストだって言っていた。激しくも優しいアナキストだった。いや、暖かくて、土臭い人間だった。
でも、信原さんは、日本の生活がしんどかったと思う。物質的で、人間と人間のコミュニケーションが脆い日本の生活が。信原さんは、パレスチナ人を隔離する壁に対して嘆いていた。でも、パレスチナには人々を隔離する壁に立ち向かう雑草のような魂やコミュニティがある。しかし、日本には、人と人を隔離する見えない壁がある。それをぶち破る魂やコミュニティが弱いと嘆いていた。だから、彼女は、いつもそんな壁をブチ破れと、鉄格子を殴り叩くように、みんなのケツをいつも、うるさく殴り叩いていた。
私と信原さんは40歳、離れている。けど、なんか、いつも酒を飲みながら、パレスチナについて、アナキズムや運動について、くだらない下ネタを、タメ語混じりで話し、自由に突っ込みあえる、本当に大切な、一人の仲間だった。信原さんという大好きな人間が、いってしまった。私は、彼女の意志を勝手に引き継いで、生きたいと思う。信原さんのように、もっと勝手に、しなやかに、優しく、縛られず、自由に。
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